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映画「ジョーカー」感想(物語・テーマ編)/過激で差別的なシーンに込められた意図を考えてみる

映画「ジョーカー」感想、長くなったので今回は『物語・テーマ』編ってカンジで語っていきますー。

 

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犯罪が褒め讃えられるジョークを生む社会

シナリオ面においては、『主人公がいかにジョーカーとなるか?』という展開を通して、現代社会の負の側面、報われない人々、この世の不条理…を浮かび上がらせ、観る者に突きつける構成に目が離せませんでしたね…!

とくにアーサーが地下鉄で初めて殺人を犯してしまい、それが鬱屈した社会の中で『底辺のヒーロー』として予期せぬ方向で祀り上げられていく流れ。

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アーサーは別に『富裕層へ罰を下してやる!』みたいな、テロリズムとか"大義"などがあったわけでなく、偶然その日に数々の災難が重なった結果の、衝動的な殺人だったはず。

それがたまたま相手が「いけすかない有名な会社の証券マン」だったことで、凶悪犯罪の典型であるはずの『殺人』が庶民に絶賛される…というなんとも悪趣味な「ジョーク」。

しかし『自分は何のために生きているのか。オレってなんなんだ…』と失意に沈んでいたアーサーにとって、このふってわいた異常事態に、ある種の福音というか天啓というか、なにがしかの意味を見出してしまう、という。

でも、不義不当が蔓延する「狂った社会」「可笑(おか)しな社会」のなかでは、こんなバカバカしいジョークがシャレにならず、実際にも起こり得る…そう思えてゾクゾクきました…。

 

 

「V」と「ジョーカー」、それに触発される市民

この「群衆が触発される」というシーンでもうひとつ、「Vフォーヴェンデッタ」のコミックス&映画版を思い出したり。

 

前回の記事でも言及したアメコミ作家・アランムーアが手掛けたグラフィックノベルです。

アノニマスで有名な)「ガイフォークスのマスク」を被った謎の超人が、圧政を敷く独裁政府に暗殺やテロを仕掛けていき、最後は民衆に決起を促し革命を目指す…という物語。

「ジョーカー」では「ピエロの仮面を被る民衆」が出てきますが、「V」の映画版ラストシーンにも、抑圧されてきた民衆がヒーローと同じマスクを被って政府の建物に集い、独裁政府に反抗するシーンが出てきます。

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「V」のほうは「支配階層への反逆」として肯定的に描かれるいっぽう、「ジョーカー」のそれは正しいことというより「狂った社会から発生したカオス」という風に描写されていて、一見同じ「上級階層への反抗」という構図でもここまで違って見えるもんだな~なんて面白かったり。

そもそも「V」は自らのテロ活動で意思を示して民衆へ決起を促した自発的なものなのに対して、「ジョーカー」は前述のとおり"やらかしてしまった"出来事がかってに社会の中で作り上げられた受動的なものですもんね…。

 

 

この世を嗤う、「ジョーカー」と「コメディアン」のふたり

さらにアランムーア原作で再び「ウォッチメン」を思い出すと、作中の重要キャラクターとしてコメディアンというキャラもいましたね~。

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アメコミキャラで、「この世を嗤う」というテーマを背負っていることや、そもそも「コメディアン」と「ジョーカー」…二つの名前にも通じるものがあります。

彼は複雑に物語世界が組み上げられている「ウォッチメン」という作品のなかでも、ひときわその個性・パーソナリティを掴みきれない(ていうか多分一生ムリな)、とてもトリッキーなキャラなんですが…

今回「ジョーカー」を観たことで、ちょっとだけこの「コメディアンとはどんなキャラクターなのか?」という謎に一歩近づけたような気がします。(でもそれが具体的にどーゆーことなのかを言語化できねー)

 

 

小人症の仕事仲間を見逃したシーンが訴えるもの

最後に、この映画のなかでとりわけ白眉というか、衝撃を受けたシーンが、「アーサーが自宅に来た道化師仲間を刺し殺し、もう一人の仲間がそこから逃げ出そうとするが、小人症のためにドアの内側のチェーンロックに背が届かず開けられない」というくだりですね…。

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(ほかにも小人症をネタにする同僚のジョークにアーサーも愛想笑いするシーンがあったり)

ポリティカルコレクトネスが叫ばれる今の世の中で、R-15とはいえハリウッド映画で、こんなふうに小人症の人を扱う描写が出てきたのには驚きました。

…でも、今より人権意識の低い時代には、たぶんこういう差別的なシチュエーションのコントなどが『無邪気なお笑いネタ』としてヘーキで演じられてたこともあったんでしょうね。

そんなドギつい”差別ネタ”を、しかも『殺人鬼から逃げ出す瞬間』というブラックすぎる流れに載せてもってくるというのは、なんて悪趣味なジョークなんだ…と思えるシーン。

 

でもこれが逆説的に、小人症のひと、あるいはアーサーも含めた"マイノリティ"にとっての「"普通じゃなければいけない社会"での生きづらさ」を象徴するシーンでもあるように観えるんです。

時代が進んで人権意識も改善されたとはいえ、この一連のシーンで感じるのと同じぐらい、マイノリティな人々がこの社会で生きていくうえでの苦しみ、不自由さなどはまだまだ変わらなくて…。

そしてこのシーンは、そんな社会の"解決すべき課題"に気づかない…あるいはわかっていて目を背けている、「普通を装っている人々(観客)」にとってとても居心地の悪いジョークをド直球でぶつけるシーンでもあるんじゃないかと。

 

その後、アーサーが彼を見逃してチェーンロックを開けてあげる展開にも、また驚きましたね。

深読みですが、もし彼があそこでアーサーに殺されていたならば、観ている側にといっては「ああ、小人の彼はアーサーに殺された」という決着がつく…言わば『居心地の悪い存在は消えた』と心の中で安堵していたんじゃないかと。

でもアーサーはチェーンを開けてやり、そのまま彼を逃がしました。しかしそれは、ジョーカーという殺人犯から逃げおおせたところで、彼は「身体的特徴をバカにする社会」にこれからも生き続ける、ということでもあります。

すなわち『小人症の彼は今も生きている』ということを印象付けるこのシーンは、観客という「普通の人たち」へ、彼のような人々もアンタたちと同じ社会に共に生きている事を忘れるなと訴える、そんな効果を生んでいるようにも思うんですよね…。

 


…という感じで、雑多に「ジョーカー」から感じたこと、思い出したことを書き散らした感想でした~。ほんと語ればキリのない作品です。

一応コミックファン的には、従来のジョーカー的な「天才的な劇場型犯罪シーン」みたいなのがなかったのが不満といえば不満なのですが、それはもはや単にジャンル違い、ってだけですねw

観る側をグイと引き込むシリアスな物語と、それを悪趣味に堕させない作り込まれた映像美と主演の演技力、なにより現代社会に問うメッセージに満ちた怪作でした。

 

 

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